「絵描きの植田さん」(いしいしんじ)

本でなければ成し得ない奇跡

「絵描きの植田さん」(いしいしんじ)
 新潮文庫

悲しい事故で
恋人と聴覚を失ってしまった
絵描きの植田さん。
彼はいつも
高原の湖の畔から見える
自然の風景を描いている。
ある日、凍りついた湖を渡って、
イルマとメリの母娘が
越してくる。
メリもまた、
耳が聞こえなかった…。

厳しい冬が
終わろうとしている時期になると
どうしても再読したくなる一冊が
私にはあります。
それが本書です。

植田さんの絵には、
ささやかに生きている生き物たちが
描かれます。
リンドウ、ナナカマド、
オタカラコウ、チョウゲンボウ、
キタテハ、…。
彼の絵に惹かれたメリは、しかし、
鋭い指摘をします。
「うえださんの絵には、
 ひとがひとりもでてこないのね」

植田さんは決して冷たい人でも、
心根の悪い人でもありません。
植田さんの心は、
冷たい雪に覆われたかのように、
静かで優しいのです。
だからこそ、農家のオシダさんや
定食屋のおかみさんなど、
村人たちはみな好意を持って
彼に接しているのです。
でも植田さんは、
その中に自らは決して深く
入り込もうとしません。

その植田さんの閉ざされた心が、
メリとの出会いをきっかけに、
徐々に徐々に融かされていく様子が、
物語として紡がれていきます。
あたかも雪国の固い根雪が、
春の陽光によって
ゆっくりと溶け始めるかのように。

春の近づいたある日、
絵を描くために出かけた山中で、
植田さんは雪崩に遭遇します。
幸い、大事には至りませんでしたが…、
メリが彼を追って、
山に入っていたのです。
救出され、病院に搬送されたメリ。
意識のないメリの病室に、
植田さんは…。

そこからの18頁。
本でなければ成し得ない表現方法で
奇跡が描かれています。
本書の魅力は
この18頁に凝縮されています。
ぜひ、本書を
手にとっていただきたいと思います。

意識を取り戻したメリが発した言葉が、
すべてを表しています。
「ねえ、みんな!
 いままで知っていた?
 考えたことがあった?
 私たち、こんなすばらしい世界に
 住んでるのよ!」

中学生高校生に薦めたい、いや、
それ以上に心がカサカサに
乾燥しかけている大人のみなさんに
ぜひ薦めたい一冊です。
私の持っているのは文庫本ですが、
できればハードカバーのものを
図書館で探してください。

(2021.2.15)

Pat_ScrapによるPixabayからの画像

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